2021年10月23日 御本宮大祭 宮司講話

2021年10月23日 御本宮大祭 宮司講話

他者を活かす行為になりきる
― 「行為による瞑想」のすすめ ―

 情けは人の為ならず、という言葉があります。 人に対して情けを掛けておけば、巡り巡って自分に良い報いが返ってくるという意味です。これは世俗的な知恵ですが、他人を助けることが自分を助けることになるという主張は古今東西の宗教にあります。その理由づけは、人のために尽くしたら、神様が自分を助けてくれるからである、というものを含めて様々です。しかし、他人を助けることが自分を助けることになるという言説そのものは、今も昔も、洋の東西、世俗の知恵か宗教の教えかを問わず、人類にとって極めて普遍的な教えであることは間違いなさそうです。

 超作とは、この普遍的な、伝統的な教えを初代宮司様が突き詰められたものなのです(註一)。それでは、初代宮司様はこの教えをどのように突き詰められたのでしょうか。初代宮司様が説かれた超作は「他者を活かす行為になりきる」という言葉にまとめることができます。ありふれた表現のようですが、初代宮司様の場所論からみると、それが深遠な意味を帯びてきます。

「他者」とは、場所である神様の中に生きている者たちです。私たち人間から見れば、他者とはまずは他の人たちでしょう。しかし、場所から観れば、それだけではなく、その場所の中に生きている自然や霊たちを含んだものです。他者を「活かす」とは、その個人性と社会性を成り立たせることです。場所から観れば、個人性が成り立つとは、その場所の中に生きている個の生存が成り立つことです。そして、社会性が成り立つとは、その個が場所によって生かされている世界全体と調和し、世界に貢献することによって成長することです。

 さて、初代宮司様は瞑想行を突き詰めることによって、対象と一つになるという三昧とは、自分と対象の両方がその中で生かされているところ、つまり場所の意識に目覚めることであることを明らかにされました(註二)。行為になりきっているときには、対象と一つになっている、と初代宮司様はおっしゃいます。ですから、「行為になりきる」とは、場所の意識に目覚めて行為をするということなのです。さらに、宗教的行ではない日常の行為においてさえも、自分と対象を結びつけている行為に、我を忘れるほどに集中することで、行為になりきる状態に達し、場所の意識に達することを明らかにされたのです(註三)。

 そして、場所の意識に達したときには、「場所の中で共に生きている他者を活かす」という倫理に目覚めることを体験されました(註四)。逆に、そのような倫理に目覚めようと努力することが、場所の意識に達するための道であることをも明らかにされたのです(註五)。

 ここにおいて、瞑想と日常の倫理的な行為とが等しいものになったのです。ですから、他者を活かす行為になりきろうとすることは、「行為による瞑想」なのです(註 六)。そして、行為による瞑想が完成されて(註七)、場所の意識に目覚めた境地においてなす行為が「超作」なのです(註八)。

 人は、行為による瞑想を実践することによって超作に至ります。そのとき、神様と他者への貢献という倫理に達します。そして、神様と出会い自分自身が救われます(註九)。ですから、この行為による瞑想に努めてください。つまり、他者を活かす行為になりきろうと自ら努力してください。そして、それを人に勧めてください。

 行為による瞑想は、初めにお話ししたように、人助けが自分を助けることであるという、人類にとって普遍的な教えに立脚しているものです。ですから、誰にでも通じるものです。特定の人たちだけに通じるようなものではありません。ですから、ただ他者を活かすためだけに、行為による瞑想に自ら励んでください。大神様の御名を告げず、師匠の名を告げず、教団の名を告げず、ただ他者を活かすためだけに、それを人に勧めてください(註十)。

<註>

一.一般に、単に新しいだけのものにはあまり価値はありません。普遍的なものを突き詰め、それを再構築することによって、新しい価値が創造されるのです。宗教でも同じことが言えます。

二.一般に、神秘思想においては、神や対象と一つになる一致の体験が重視されてきました。しかし、その体験がどのようなものかを明示することは困難です。初代宮司様は、この一致の体験の構造を明らかにされました。これは大変なご功績だと思います。

三.つまり、瞑想によって対象と一つになり、それから行為をするのではなく、行為に集中することによって対象と一つになることができる、ということなのです。

四.それはつまり、そのような倫理に目覚めていないということは、場所の意識に達していないということです。

五.ここが決定的に重要なところです。神秘思想と倫理との関係は単純ではありません。ときには矛盾することも多いものです。超作の論理は倫理的な神秘思想なのです。

六.ここは、『バガヴァッド・ギーター』的なところです。しかし、次註で示すように、超作は単に『バガヴァッド・ギーター』的であるだけではありません。

七.『バガヴァッド・ギーター』では、超作(あるいは、行為の超越、行為の遠離)と訳される言葉が二回出てきます。それは、『バガヴァッド・ギーター』で重視される実践「行為によるヨーガ」が完成された境地をさしているのです。それに合わせて、超作を完成された境地とし、そこに至るための実践を「行為による瞑想」と呼ぶことにします。すると、今まで超作と呼んでいたものは、おおかたは行為による瞑想ということになります。初代宮司様は、完成された境地での行為も、そこに至るための過程の実践も、あまり区別をつけずに超作と呼ばれました。私はそれでは混乱の原因をつくると思い、『バガヴァッド・ギーター』に倣って概念整理をしました。

八.『バガヴァッド・ギーター』においては、結果を度外視した行為をすることによって解脱します。しかし、本山博神学の超作とは、解脱した意識において行為をすることです。両者の違いは大きいのです。本山博神学では、解脱した意識とは場所の意識です。場所の意識においてなされる行為には、場所の持つ意図が実現されるという結果が伴います。つまり、御神意の実現という結果が伴います。『バガヴァッド・ギーター』においては、行為は手段で、解脱が目的です。本山博神学の超作においては、むしろ御神意の実現の方が目的なのです。ですから、他者を活かす行為になりきる、という初代宮司様の提示された定義と、御神意の実現のための行為という私の提示した定義は、本山博神学においては実質的に同じ内容です。なお、御神意の実現は、精神とモノとの相互作用という本山博神学の創造論の要です。また、ここでは詳しく述べませんが、「行為の瞑想」によって超作に至る過程は、三段階の本山博モデル(単純な一致、エクスタシー、完全な一致)という本山博神学の修道論と対応しています。本山博神学の三つの柱である、場所論、創造論、修道論が超作という実践において統合されているのです。

九.ここで言う神様との出会いとは、本山博神学においては、場所の意識に目覚めるということと内容的に同じです。歴史的には、神秘主義では個人がいかにして神と出会うかということが中心的なテーマであり、その意味で神秘主義はきわめて個人主義的なものでした。しかし、神との出会いとは場所の意識に目覚めることだと捉え直すと、それとは違う風景が見えてきます。それは端的に言えば、神秘主義が社会性を持つに至ったということです。行為による瞑想から超作に至る一連の実践は、神秘体験の社会化であると言えるでしょう。

十.自分たちが崇める神への信仰を広めようとすることも、自分たちの師匠の名を高めようとすることも、自分たちの教団を大きくしようとすることも、捉えようによっては、ある意味で教団という人間が作る組織の利己的な行為です。そのような利己性から一切離れて、ただ他者を活かすためだけに「行為による瞑想」を人に伝えてほしいのです。