2023年10月23日 御本宮大祭 宮司講話

2023年10月23日 御本宮大祭 宮司講話

争いをおさめる(大祭講話編)
教祖の祈りに傚う

 今日は秋の大祭のご奉仕ご苦労さまでした。今月の感謝祭のときに始まったイスラエルのガザ地区での紛争は、去年から始まったウクライナ戦争とならぶ世界的危機であると思います。一部の論者の中には、今の状況は日本による満州事変から第二次世界大戦につながった一九三〇年代の状況に似ていると主張する人もいるくらいです。地球の裏側で起こった戦争に、平和な日本で暮らす私たちができることは具体的にはあまりありません。しかし、私たちには教祖であるお代様以来の役割があります。それは祈ることです。

 信仰のない人から見れば、座って黙って何もしないで、ただ念じているだけの祈りに何か意味があるのか、ということになるかもしれません。そして、そのように考える人には具体的な行為である超作の教義の方が説得力があるかもしれません。そういう意味では、祈りよりも超作の方が普遍性があるのかもしれません。
 しかし、宗教行為としては、祈りは世界的にも歴史的にも普遍的なものです。そして、私たちにとって重要なことは、私たちが信仰する玉光大神様が御降臨になって教祖にさせなさったのは、何よりもお祈りだったということです。教祖は自身から何かを望んで祈られたのではありません。大神様に命じられて祈られたのです。私がこの神社のお祭りの原型だと思っているのは、『教祖自叙傳』に記述されている、教祖と準教祖が木曽のお山でされた戦争終結のお祈りです。何故そう思うのかと言えば、その場面では大神様が神々様の関係に介入され、采配されているからです。いつも申しますように、玉光神社の大祭と月次のお祭りは大神様と神々様の御協議です。ですから、木曽のお祈りがこの神社のお祭りの原型だと私は考えているわけです。

 ここで私が大切だと思うことは、大神様が神々様と関わられるときに、生身の人間である教祖と準教祖にお祈りをさせなさったことです。要するに、神界での出来事であるのだから、人間がそこで果たす役割などなさそうに思える場面で、大神様が生身の人間に祈らせていらっしゃるのです。私にとっては、ここは理論的な説明が難しいところですが、確かに大神様は、そしてたぶん神々様も、戦争に限らず顕界での出来事に関わられる場合には、生身の人間の祈りを必要とされるようなのです。『玉の光』において「神勅を被りて」なされたイザナキ、イザナミの二尊による祈りはまさにそれに当たると思います。長年の祈りの経験から、確かにそうだと思うのですが、その理由を私は言葉では説明できないでいます。
 大神様は先の大戦という大きな争いをおさめるために御降臨されました。太平洋戦争は我が国が直接戦ったものですが、それだけでなく大神様は戦後も教祖にベトナム戦争終結のお祈りを長期に渡ってさせなさいました。世界中の戦争をおさめるのが大神様の御神意なのだと私は信じています。

 『教祖自叙傳』に記述されている大神様の御姿は、命じられるだけでなく、世界の安寧のために懸命に働かれる御姿です。今日も、この瞬間も人類の救済、大自然、地球そして神々の救済のために大神様は懸命に働いていらっしゃるのだ、と畏れながらも拝察いたします。

 私たちの祈りは教祖や準教祖、そして初代宮司の祈りと比べれば、微々たるものかもしれません。しかし、大神様は生身の人間である私たちの祈りを道具として必要とされている、と私は思います。ゼロ円は一億回集めてもゼロ円です。しかし、一円は一億回集めれば一億円になります。私たち大神様の信徒は、大神様の御神意の実現のために、懸命に祈りましょう。この世界の救済は私たち自身の救済であるはずです。私たちは玉光大神様による世界の救済があることを信じ、私たちを救ってくださろうとする大神様の御神意の実現のために精一杯祈りましょう。
 一人ひとりは日常で祈り、大神様のお祭りでは信徒が集合して心を合わせて祈りましょう。大神様はこの世界の混乱を救われるために、私たちに祈るよう求めていらっしゃる、幼い日々に教祖とともに祈った者として、そう信じています。