今日は救霊祭でした。 宮司様の御指導で、何年か前から施餓鬼祭を救霊祭と改めました。 宮司様が、大神様のもとにいろんな御霊達が集まってこられている様子を画かれた絵を、妙清会館の正面に掲げてあります。 救霊祭、霊を救うと書く救霊祭において、霊を救うというのを、どういう心がけで祈ればいいのかというお話を、最初にしたいと思います。
皆さんにとって、一番身近な霊といえば、まず、ご先祖の霊ですね。 施餓鬼祭は先の大戦で亡くなったいわゆる英霊達と、戦火や空襲のために苦しんで亡くなった御霊達の苦しみを救うということが先ず中心で、また、それと同時に不慮の死を遂げた御霊達、また有縁無縁のさまざまな御霊達の苦しみを神様にお救いいただくことをお願いするお祭りでもあるわけです。 そして、皆さんにとって一番身近な霊といえば、まず先祖の霊であるわけです。
ところで、先ごろ新宗連である勉強会がありました。 玉光神社からは私、他に神道系の教団、神仏習合系の教団、仏教系の教団等、計七教団か八教団の方が出席されて勉強会をしたのです。 ただし、これは新宗連での勉強会ですから、伝統宗教の方はいなくて新しい宗教の方ばかりでした。
どういう内容であったかというと、亡くなった方達への儀礼(死者儀礼)を、それぞれのご教団でどんなふうに行なっているのかということがテーマだったのです。
だいたい新しい宗教団体ですと、お葬式まで自教団内で行なうという教団はなかなか少なくて、お葬式はその家の宗教(多くの場合は檀家になっているお寺さん)にお任せするというところが多いのです。 そしてまた、亡くなった方への儀礼をどのようにするかという話をしている中で、先祖供養を教団内でどう位置づけているかということも一緒に話し合ったわけです。 何故かというと、一般に日本の新宗教においては、先祖供養は非常に重んじられているからです。
玉光神社で先祖のお祈りをするときには、とにかく先祖のカルマを神様に浄めていただくということが最初から中心にあったわけですね。 それに対して日本の宗教というのは元々自然崇拝と祖先崇拝が主ですから、元々日本人にとっては先祖というのは拝む対象、神であるわけです。 それで、現在自分達に悪いことが起きているのはどうも先祖の行ないの結果らしいというふうに思って、この先祖の悪い行ないによる何かを霊的な力や呪術的な力あるいは神様の力といった神秘的な力で浄めるという感覚と、先祖そのものを神あるいは尊いものと思って手を合わせる対象とするという感覚、どちらの感覚がそれぞれのご教団で強いのかなと、そんな質問もその勉強会の中で私から出してみたわけです(権宮司による註:玉光神社においてはお浄めは神様がしてくださるものと捉えられるのであるが、一般には浄化をする力は神様の力とは限らない)。
その時出席されていた七つか八つの教団の中で、先祖に悪い因縁があって、それゆえに今自分達に不幸や不都合が起きているから、その悪い因縁を浄めるとか祓うとか、あるいは正すという感覚があるのは、実は玉光神社だけでした。 他のご教団では、先祖供養とは詰まるところご先祖のご恩に報い感謝することである、先祖供養とは報恩感謝であるとおっしゃるのです。 あるご教団では、「いや、悪い因縁という話は極力しません。 そういう話が出たら、そういう話をしないようにさせます」とおっしゃる。 また、「教祖のときには報恩感謝と因縁を浄めると両方があったようだ。 しかし、二代目、三代目のときに、人間はどんな人間でも死んだら先祖として光り輝くゆえに、報恩感謝だけを祈るというふうに変えた」というご教団もありました。
新宗連には六十数教団が加入されていますが、その中には先祖の悪因縁を浄めるという考え方の教団も幾つかあるのです。 しかし、その勉強会のときに限って言えば、玉光神社にだけこの「悪い因縁」というような考え方があり、他のところでは先祖供養とは詰まるところ報恩感謝に尽きるというお話でした。
それで、今日はこのことに関わるお話をしたいと思うのです。
自分達と異なる宗教と出会い、うちの宗教とあちらの宗教とでは教えが違うというときに、「ああ、あっちは間違っている。 こっちは正しい」という態度では、決して積極的な相互理解は生まれてきません。 しかしながら、実はこのようなことは非常によくあることなのです。 世界平和を祈り、「各宗教の違いを乗り越えて仲良くできるようにお祈りしましょう」と言いながら、自分達と違う宗教がやってくると、「ありゃ間違っている」と反発するということはよくあるのです。 それでは、「互いに仲良く」と言いながら、言っていることとやっていることは全く違うということになってしまう。
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