新年おめでとうございます。
僕も今年は数えで言うと八十六ね、満で言うと八十四歳ですけど、十二月の生まれだから。
元旦の御神言をお話しするようになって、もうどのぐらいになるんですかね。 ・・・・・二十九歳になりたての時に宮司になって、まあ、いろんなことがあったけれども、それからお伺いをしながら毎年とすると、五十四年かな。 だから五十四回、これを皆さんにお話ししているわけですね。
母(お代様・豊玉照妙光之神)が小豆島の双子の浦の崖から、――そこは今見ても下の海まで五十メートルもある崖ッ淵で、よくまあここから跳び込まれたなあと思うのですが・・・・・・。 昔から、そういうふうに跳び込んで神様にお助け戴いたり、仏様にお助け戴いた方としては、空海は、香川県の善通寺の裏手の捨身岳という山の崖から、本当に仏様がいらっしゃるのなら、跳び込んでも助けて戴けるに違いないと、跳び下りられたみたいですね。
それから一休さんは、跳び下りはしないけど、本当に神様、仏様がいらっしゃるのなら助けて下さるに違いないというので、大嵐の時に小舟に乗って琵琶湖の湖の中に漂って、そして助けられた。
というふうに、いろいろ、命をかけて仏様、神様を信じた人、そういう人たちは、人間という、魂とか身体とか心とか一切そういう自分の存在を投げ捨てて、ただ神様、仏様を信じた。 その時に、神様の大きな御力が入ってくる。 仏様の大きな御力が入ってくるのです。
私も死ぬ目にはずいぶん遭いました。 今までで三回かな、死に直面して、死を超えていったように思います。 その時に一番大事なことは、神様を信じる、ただもう神様に全てをお任せするということですね。 それがないと、神様にお会いすることはできない。
(井の頭の玉光神社の)御本殿の下には二畳半ぐらいの地下室があるのです。 お宮が昭和二十九(一九五四)年暮れの出来たての頃は、まだコンクリートが乾いていないから、水がポタリポタリと落ちて、その雫の下で何時間も微動だにしないで坐る。 寒いよね。 普通なら風邪を引くわけですね。 狭いし空気も悪い。 で、そういうふうに、跳び込む代わりに何年もかけて死ぬ練習をした。 それでだんだん神様に徐々にお会いできるようになった。
最初からすぐ神様にパッと、大きな御力でお会いできるかというと、そうではなくて、私がたとえば一升徳利だったら、その一升の殻が壊れて一斗入るようになった、すると、一斗の大きさのところに神様が降りてきていろいろなことをお示し下さる。 さらにだんだんその十倍、さらにその十倍というふうに、小さな自分の殻を破るほど、神様はそれに応じて入って下さる。
また、自分というものも、いっぺんに空っぽになってしまうわけではなくて、無念無想になって空になった、神様の御力が入ってきた、それでいろんなことが分かるようになった、人を助けることもできるようになったので悟ったのかと思ったら、そうではなくて、まだ「自分」があるのです。 神様、――神々の次元というところへ行っても、まだ「自分」があるわけです。
そういう自分をなくし、なくしていって、最終的に、「自分」は何も無いのだというところまで行っても、何も無い、という自分がやはりあったのですね。 釈尊がそれをも捨てた時に涅槃に入られたわけです。 それに入るまでに、そして入ったことに気がつくまでには間がある。 皆さんだって人間として生まれてきても、人間であるというのに気がつくまでには何年かかかる。
そこにいる
そういう自分を捨てるというのには、本当に大変な行が要る。 そして自分が分からないと、捨てられない。 また、捨てるについても、「もうこれでいい」と思ったらそれでお終いですね。 それから先へは上がれない。
空海にしても一休にしても、そういう行をして、だんだんに上に上がっていかれた。 そして上にだんだん上がる時にどういう現象が起きるかというのは、洋の東西を問わず、キリスト教であろうと仏教であろうとヒンズーであろうと、あるところまで、ある悟りの状態にまで達した人は、皆同じ体験をするのです。
弘法様は東寺の中に大事にお不動様を秘仏としてお祀りされています。 空海はもう不動明王の領域を超えたところへ行かれているけれども、それでも、その、超えた時の体験を大事にして、不動明王のお像その他を、全国を回って書いてあげられた、――本物がどのぐらいあるのか知らないが、たくさんお不動様を描かれたそうです。
それで、そういうふうにだんだん上がって行くと、小さい日本についてだけでなくて、世界の動き、あるいは地球というよりも、もっと大きな宇宙を見る目ができるようになり、いろんなことが分かるようになるのです。 そこまで行くのには何べんも何べんも生まれ変わり、そして死なないとだめですね。
今までの御神言を伺って思うのですが、小さな地球の人類社会というのが御神言のとおりに動いてきたということは、神様の御経綸によって人間の社会あるいは地球が動いているのだと思うのです。 去年の一月か二月でしたが、京セラを創設された稲盛さんが、「今の人類というのは際限なく物の豊かさを追いかけて、魂とか思いやりの心というものを忘れてしまっているから、結局は滅びるんじゃないんでしょうか。 高度成長、高度成長というので、皆一生懸命に自分の会社だの国が栄えるようにといろいろ努力してきたけれども、これからは人間の欲望を刺戟することで発展するという資本主義のあり方を改めて、人間の生き方や考え方を改めないといけないと思います。 生物も無生物も含めて自然界と共生しないと、人間は増えても、ものはそんなに増えない。 地球の中にある資源というのは無尽蔵にあるわけじゃないし、特に食べ物がだんだん足りなくなったら、戦争も起きるかも知れない。 人間はこれからどうなるんでしょうか、やはり滅びるのでしょうか?」と言われるから、「いやあ、神様がせっかく二百億年もかけて人間を創られて、それがそんな簡単に滅びるわけはないと思います」と答えると、「そうでしょうかねえ、先生はずいぶん楽天的なんですねえ」と言われるので、「いや、楽天的もなにもないよ。 神様がそういう無駄なことはなさらないと思いますよ」というふうに話をしたのです。
さて、今年の御神言ですが、あまり有り難くない御神言もあるので困ったなあと思うのですが。
日本人は元旦祭とかお正月というと、「一年の計」ということをよく言いますよね。 しかし一年なんてすぐ経っちゃいますね。 「百年の計」、そういうふうに言えばいいのだけれど、たったの一年と言うわけは、日本という国は恵まれていて、春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て、また春が来るというふうに四季がめぐって、自然に恵まれた国だからでしょうかね。 きれいだし、水はふんだんにある。
それで、一年の計ではなくて、御神言は「向こう十年」という御神言でした。 しかし本当は、十年ではなくて、三十年、四十年のことだと思います。 御神言から二十一世紀という百年は、少なくとも人間にとっては大きな試練の時だと思うのです。 あまり人間が思い上がっていますからね。 しかし、乗り越えられると思うのです。
以下略
