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「本山博著作集」第七巻の読みどころ   宮司 本山一博

今月は第七巻の読みどころを紹介します。特に『場所的個としての覚者』は宮司(現名誉宮司)の主著の一つと言える重要なものです。

 場所的個としての覚者  〜第一章「場所的個としての覚者」

宮司(現名誉宮司)が60歳から61歳にかけての講義録で、内容は宮司(現名誉宮司)の思想の原点である博士論文の第六章「宗教経験と存在」の解説です。しかし「宗教経験と存在」と主に四つの点で違います。まず、本書において「宗教経験と存在」における神霊とはプルシャ以上の神であると明言したことです。次に、『祈りと救い』などで示された宮司(現名誉宮司)の世界観、創造論が持ち込まれ、「モノ」を取り込んだ本山モデル(宗教体験の三段階)が提示されたことです。三つ目は「自覚」についての考察が深まったこと、四つ目は、二つの空(絶対者=空、縁起=空)の統合されたことです。
博士論文においては精神とモノの関係は科学的研究において問題にされ、体験的宗教哲学である「宗教経験と存在」においては精神あるいは意識の問題のみが取り上げられていました。本山モデルの中に、モノと精神の二原理を立てながら、その相互作用を説いた世界観が導入されことにより、修道論としての旧来の本山モデル(博士論文で示された精神的な自己否定のモデル)とハタヨーガモデル(霊的生理学な技法、つまり肉体と霊体によって組み立てられた身体技法)の論理的な統合の可能性もまた開けてきました。本山モデルそのものがモノと精神が統合される視点で深められてきたのです。本山モデルにモノと精神の本山的世界観を導入することで、本山的世界観と修道論とが総合的有機的に結びつきます。
また、自覚の問題は『宗教経験と存在』以来宮司(現名誉宮司)にとって重要な問題の一つでしたが、博士論文以後は本書に至るまで体系だった考察はされずにきました。しかし、ここでは博士論文より踏み込んだ考察がされています。
二つの空観の統合が指し示している重要なことは、我々の中にモノと精神を統合しかつ超えている絶対者あるいは創造者がその全体をもって内在しているということです。絶対者がモノと精神を統合するものとしてその全体性をもって個人の中に内在するから場所的個が可能なのである。場所でありながら個としてのこのモノの社会の中で働く覚者のあり方が可能になるのです。そして、この論理が修道論としての本山モデルを下支えできるのです。

 場所的個としての覚者  〜第二章仏陀の悟り〜

仏陀の悟りを宮司(現名誉宮司)の立場から解説したものです。
宮司(現名誉宮司)によるとヒンドゥー教(正確にはバラモン教というべきでしょう)の覚者たちが達したのはプルシャの次元でありプルシャが永遠のものに見える次元でした。しかし、釈尊はそのプルシャさえも無自性の有にすぎないことを見抜き、そして有も無も超えた法=空=絶対を悟り、ヒンドゥー教を超えた境地に達しました。宮司(現名誉宮司)によるとヒンドゥー教的梵我一如における梵も我も有でありますが、宮司(現名誉宮司)的(そして宮司(現名誉宮司)によれば釈尊的)梵我一如においては梵も我も実は有ではない。あるとかないとか言えない絶対であり、それゆえにモノと精神を統合するものです。
しかし、一方では仏教にはモノの視点が希薄であるとし、仏教の枠を超えた世界宗教の必要性を説かれます。

 気・瞑想・ヨーガの健康学

「気』をキーワードにしたオムニバス的講演集です。いくつかの章は非常に完成度の高い論考になっています。

 人間と宗教の研究

世界宗教のあり方として、主に経典宗教と大乗仏教(あるいはインド宗教)の統合を目指したもので、第1章では人間観に、第2章ではより大きな宗教の構造に焦点が当たっています。
第1章(1992年)では肉体・微細身・原因身それぞれの次元の身体と心の個人性と社会性(普遍性)についての考察が踏み込んでなされています。『気・瞑想・ヨーガの健康学』の第一章「気の人間学」(1990年)においても微細身の世界についての踏み込んだ考察が見られました。この時期にそれぞれの次元における神秘体験を詳述した講義が宮司(現名誉宮司)により行われていますが、その講義録が次巻に収められる『神秘体験の種々相』Ⅰ・Ⅱです。