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お代様生誕100年祭「お代様が御代人として選ばれた三つの理由」

宮司(現名誉宮司)ご講話 (2009年3月13日)

*お代様が御代人として選ばれられた三つの理由* 

  もう六十年、いや六十年どころじゃないね、七十五年、いやもっと前かな、初めてお代様にお会いしたのが七つの頃で、今八十四だから、七十七年か。 七十七年位前からの古い写真からずーっと四十年間位の写真をみてると、自然に涙が出てきてね。 懐かしいっていうか、大変だったなあと、おばあちゃん(妙光之神様)はね。

 それで、何から話をしようかなと思うんだけど、犬の話を先にしようかな。ジョンという犬をおばあちゃんが飼っててね、僕が六つか七つぐらいの時だったけれど、それまで僕の家では犬とか猫とか飼ったことがなかった。 大きいおばあちゃん(註:宮司様のご生母の清光先生)は、日中ほとんど働きに出る、父親は朝から夜十時過まで、郵便局に勤めていて家に帰って来ない。 で、僕は一人きりでいつも淋しかったけれど、猫とか犬とかいうのはあまり飼った事がなかったけど、ジョンという犬をおばあちゃん、お代様が飼っていた。 その頃は、「お代様」っては呼んでなかった、「ねえちゃん、ねえちゃん」て言うてた。 僕と十六違いでしょ、僕が六つか七つ、でお代様が二十二、三位だったからね。 二十二、三って、今の僕からみると本当に小娘みたいなもんですね。 そういうおばあちゃんも、もう神様がおさがりになっていたけれども、一人で淋しかったんだね、それで犬を飼ってて、犬が僕に随分懐いてね、握り飯でもなんでも飴玉でも口移しに犬が舐めたり僕が舐めたり(会場どよめく)、一緒に寝たり、一緒に食べたり、っていうような具合だった。

 ところがその犬がね、さっきの写真にも出ていたが、の上の、山のちょっと中腹のところに、古い玉光教会があって、六畳が三つぐらいあって、その向こう側に八畳の台所があって、その家で住んでた頃だけど、ジョンがね、玉光教会のすぐ下の崖の下のところに、小さな観音様を祀ってある庵があってね、そのお供えを食べちゃうのを、庵主さんがある日の事怒って来てね、「この犬はお供えを食べ散らかしたから、こんな犬を飼ってるんだったら、もう絶交だ」って言うわけね。 「どっかに捨ててくれ」って言うわけです。

 それで、おばあちゃんも土地の生え抜きの小豆島の人ではないから、泣く泣くね、土庄の築港まで、ジョンを僕とおばあちゃんとで連れて行って、誰か高松に行く人に頼んで、「この犬を高松まで連れて行って、高松の港に着いたらジョンを放してほしい」って頼んだけど、一人の男の人が、「してあげますよ」って言うんで。 その時にね、僕も大泣きで、ジョンと別れるのが悲しくてね、おばあちゃんも泣くし、犬のヤツもなんか哀しみがこう、涙はでないけど泣くんだよね。 まあそれが、今出てきたな、頭に。

 それで、おばあちゃん、お代様はね、小学校の四年ぐらいになったら、家が本当に貧乏で、母屋を借金のかたにみんな人にとられてしまって、田舎の家は母屋の後ろに納屋があるわけだけど、その納屋に家族みんなが住んでいた。 だから、娘が三人おるけど、みんな萩とか、いろんな所へ働きに出る。 で、おばあちゃん、お代様は小学校四年生の時に姫路の方に子守にやられてね、背の高さが、大人になった時でも百五十センチはなかったように思うんだよね、だから小学校の四年生っていうと、一メートル十センチか二十センチぐらいしかなかったんじゃないかなあ。 それで、一歳か二歳位の子を背負うと、もうふらふらなんだよね。 おぶった子が泣いてのけぞったりすると、木につかまったり、電信柱につかまって子供と一緒に泣いたそうだ。  そうやって毎日を、大変だったように思うんだねえ。 それでもね、そうやって貰った子守の、その当時一月に一円か二円かしらないけど、貰ったお金をほとんど、親の所へ送ってね、本当に孝行だったね。 今そんなに孝行な子供はいるかなあと思うけど。 みんな親にねだるばっかりで。 困っている親を助けるために小学校の時から学校やめて働いてっていう人はいないんだよねえ。

 それで、大阪で働いたり、萩で働いたり、いろんなところで働いて、小豆島へ紡績工場ができるというので、それで、お金が入るかも知れないというのでみえたんだけど、自分の働いた金で母親に孝行したいというので、母親を小豆島に招かれた。 それが二十一、二の頃でね。 それなのに病気になって、もう、どうにもこうにもならない、心臓も少しおかしいし、とても生きていけないと思って、母親の隙を見て、家を抜け出してね、どっかの田圃を走って、八幡様の裏の双子の浦に行って、海に飛び込んだわけだね。

 その時に母親のおばあさんがね、どうも娘の様子がおかしいっていうんで、後ろ姿をみたもんだから、急いで追っかけていくんだけれど、年寄りだからね、なかなか追いつかない。 双子の浦は急な崖道で、お代様はまだ二十一、二で若いが、母親の方はもう、六十、七十近いわけだから、もうやっとこさっとこ崖をあがったら、娘はもうポンと海へ飛びこんだわけです、崖の上からね。

 あそこは五十メートル近く、海まで絶壁になっているから、まず助かるわけがないわね、だから母親はもうヘタヘタと座り込んじゃった。 そしたら、飛び込んだ娘が、仰向けになってワーッって上に上がってきて、どすんと落ちたの、岩の上にね。 仰向けに寝たようになってふわーっとあがってきて、それでどすんと落ちちゃった。

 それでね、「ああ、神様」というので、おばあさんは、――僕にとってはお祖母さんだよね、拝んだわけだよね。 その時に神様がね、――神様か何かわからないけど声が聞こえてきたわけだよね、男の人のような声で。

『そちの孝行に愛でて命を助けてつかわす。 これから五年したら、天が逆さまになる戦争が始まる、そして、昭和二十年になったら、戦争は終わる』

という御言葉があった。

 それで実際に、それは昭和七年でしたから、五年経ったら日支事変が始まって、昭和二十年まで十四年間かな、日支事変、大東亜戦争というふうに次々と戦争が広がって、日本はとうとう負け戦、天が逆さまになる戦争が終わったわけだね。

 で、『二十六年になると、元の独立の国にかえれる』という御神言があって、それから世界が三つの領域、つまり民主主義の先進国と、まだ栄えていないいわゆる後進国と、ロシアを中心とした共産圏と、三つに分かれて、『その三つがバランスがとれてる間は戦争は起きないけれども、バランスが崩れると戦争になるかもしれないが、そうなるともう世界が滅びるような大きな戦争になるかもしれない、それも救うために降りた』という御神言があって、実際に世界は三つに分かれた。 で、ああいう冷戦が止まって今はグローバル社会になってきて、そういう原爆戦争にならなくてすんだわけだよね。 神様がいかに人間、地球、それを救うために、おさがりになったかということがわかる。

 で、そういう地球を救う、人類を救うためにお働きくださる宇宙創造の神様が、地球というものを救うためにおさがりになった。 そういう役目を代人としてお前にさせるという御神言がその時にあったけれどもね、お代様はその時はそれはどういう意味なのかよくわからなかった。 つまり、ほとんど学校にも行ってないし、何にも知らないわけでしょ、田舎でね。 それで、そんな御神言があっても実際に何が起きるんだかよくわからないけれども、なんか御神言の声そのものがすごく大きな力を持っていて、身動きができないような、ただ恐れ畏み敬うような大きな力に包まれた。 しかし、いったいどういう神様が自分におさがりになったのかさっぱり母にはわからなかった。

 それで、あっちこっち、自分におさがりになった神様はどういう神様なんでしょうかといって小豆島の霊能者にきいてまわったわけだよね。 それでたまたま清光先生が、土庄にお不動様という拝む所があって、そこの霊能者のおばさんがとても霊能があらたかでね、僕も清光先生に付いて一緒によくあちこちお詣りしていた時に、与九郎のお稲荷様のところで、お代様が、泣き泣きね、――お代様に霊が憑いていたんだと思うんですよね、神様が霊の世界の事を知らせるためにいろんな霊を憑依させて、そういう霊を救う練習をさせていられたんだと思うんですけれども、霊が憑いたまんまの状態で、泣きながらやってきて、おばあさんというか母親が「この子はこのところ少し、どういう神様だか知らないけれども、神様がおさがりになってこういう状態によくなるんですけども、いったいどういう神様がおさがりになってるんでしょうかね」と清光先生に相談されたのです。

 で、与九郎のお稲荷様にみんなで詣ってお祈りしたら、そのお不動様の先生が、「我々にはわからないような高い神様がさがっていられて、こんなに偉い神様には自分はお会いしたことがない。 見ることもできない」って言うわけ。 で、「そういう立派な神様がおさがりになっているから、だんだんに神様が(霊的に)成長できるように導いてくださると思うから、神様のおっしゃる通りに行をしてみたらいい」って言うわけね。 

 それからね、神様が、今の御本宮の後ろに皇踏山という山があるでしょ、そこに崖がありますよね、あそこを、夜中に『今あがれ』と御神言がある。 すると、素手であがるんだよ。 絶壁だからね、昼間だって誰もあがらないね。 それを夜中に、――小豆島の夜っていうのはほんとに真っ暗がりなんだよ。 その頃の田舎の家っていうのは、十燭光ぐらいの電球が一個家の中に点いてればいいほうだよね、電気の点いていない家もあったわけね。 で、『今からどこそこへ行け』っていう、そういう御神言があると、どんな所へも、どんな時間でも、もう神様のおっしゃる通りに何でも、滝に打たれたり、山に登ったり。

 で、お代様も末っ子でしょ、末っ子だからね、やっぱり誰かに頼って一緒に行をしてもらいたいわけだよね。 それで、神様の御言葉もあったんだと思うんだね、『清光(そのころ清光とはおっしゃらないけど余島の)と一緒に行をするように』との御神言があって、それで、それから東京に出てくるまでの四、五年間は、夜であろうと、昼であろうと、どこであろうと、『行をするように、断食をするように、滝行に行くように』という御神言があると、その通りに一度も違えずに、二人で行をされた。 で、その時に僕は、六つか七つ、小学校に入る前からですから、小学校の四年か五年になるまでお二人に付いて歩いてたわけです。 学校のある時はしょうがないけれど、学校のない日はいつも一緒に山の中を歩いたり、心経をあげたり、山の上でね。

 で、その母をみててね、どういうのかな、本当に神様のおっしゃることをそのまま信じて、命が無くなるかもしれないようなこと、――夜中に皇踏山の崖を登るようなことでも、神様のおっしゃるとおりにされたわけです。

 皆さんをみてると、神様のおっしゃるとおりにしてる人はまずないね。 自分の都合のいいように神様の御言葉を解釈して、できることはするけどできないことはしない。 でもそういうふうでは、けっしてお代様のようには、神様のことはわからないと思います。 お代様はひたすら信じて行う、それから非常に親孝行であった。

 それからもう一つ大事なことは、私が十歳の頃に御神言があって、生母の清光先生が、すでに東京の裏参道に玉光教会を開かれていたお代様のところへ移られたことです。 父親とは絶えず、――ほんとに子供が見てても怪我をされないかと、怖いみたいだった。 大変でしたよね、あんな夫婦ってみたことないね、子供ながらに。 他の人であんなことされたら誰も夫婦で一日でも居れないと思うんだけど、子供がいたから辛抱して十年間頑張ったんだと思うんですけどね。

 私を連れて東京に出てこようと思ったら、父親が、自分にはもう子供ができるとは思えないから、渡せないと言うので、置いて出たわけだけれども。 私が十歳の時ですが、それから十年間は、今度は僕自身が大変でしたよね。 まあいろんな事があったけど。

 で、東京にぽっと出てきて教会を開いたわけですけど、その当時のことで、本当に大神様が立派な高い神様だという話を、一つ、二つ、しましょうか。

 皆さん、S(註:編集部でSとしました)という教団について知っているでしょ。 S教団を始められたT先生が、表参道で母が教会を開いていた時に、自分でも新しい宗教を開きたい、これについて誰に伺ったらいいか、そういう信用のできる本当の霊能者というか、神様に伺ってもらえる人がどこに居るだろか、というふうに探されたらしいのです。 それでね、ほんとにまだ名もないお代様のところ、つまり本山キヌエ師のところに行って伺ったらいいと思われたらしくて、伺いにみえた。 すると大神様が『始めたらいい』と仰せになって、それで始めて、あんなに大きな教団になられた。

 またHという教団が解散させられた時にも、母の所に大勢の準教祖の人達がみえて、戦後も割合長い間伺いにみえていましたね。

 それでね、そういう高い神様が、お代様を代人としてお選びになった一番の理由はね、親孝行であるということ、それから御神言を戴いたら、それをそのまま、お代様も清光先生もお二人とも、自分の命のあるかないかなどということはいっさい考えないで、御神言通りに何でも信じて実行されたということです。 これはできないことだね、普通は。 皇踏山の五十メートル位の絶壁、あそこを登るわけね、夜中にね。 絶対に神様を信じて御神言通りにされた。 また、本当に親孝行で、自分の身を犠牲にして、親や兄弟を皆助けた。

 お代様の生まれられた山口県の三隅に初めて清光先生と私とお代様が帰った時にね、お代様がまず何をされたかというと、先祖のお墓を立派にしたのと、それから、田圃も畑もみな売ってしまって何もないような状態だったから、当時村の中で一番いい田圃を買われたのです。 その頃は、田舎では田圃のいいのを五反も持ってれば上等だった。 一番いい田圃を本家のために買ってほしいと言われたが、僕も三隅に行ったのは初めてで、どこがいいんだかさっぱりわからない。 だから、村の人やら役場やらいろいろなところで訊いて、あそこならばいい田圃を売ってくれるかもしれないと教わったところへ行っていろいろ交渉して、当時もっていたお金を全部出して買ったように思うんだけど。

 そういう意味でね、お金には全然、というか、あまり気に掛けなかった。 要るだけのお金は神様がくださると思ってるみたいでね。 僕も今もそういうふうに思っているけれども。

 こんな話が、――僕がわりあいピアノだのオルガンだの、師範に入ってから習ったんだけど、わりあい上手に早く進んだ、僕の自慢になっちゃうけど(笑)。 普通は四年ぐらいでやる楽譜をね、一年か半年くらいで進んだのね。 そしたら先生に音楽学校に入れって言われたけれど、音楽よりは哲学を勉強したい、数学か物理も勉強したい、それで、――余計な話になっちゃった、話はどこへ行くんだっけ?

 権宮司様 パイプオルガンの話ではないですか?

 宮司様 そうそう、でね、今、研究所の講堂にオルガンが置いてあるけれど、ヤマハ楽器って会社があるでしょ、そのヤマハ楽器を創った方のすぐの弟さんが手作りで造ったオルガンが研究所にある。 いい音だよ。 普通の人が聴いてもとてもいい音だよ。 買ってからもう五十年以上になるけど、いっこうに音が悪くならない。

 そのオルガンを買ってくれる時にね、おばあちゃんは普通のオルガンとパイプオルガンと区別がつかないんだ。 パイプオルガンと言ったらその当時は日本にはたしか三越デパートにしかなかったかな。 それこそ何千万か、何億かするかもしれない。 ところがお代様に「何か楽器があるといいな」と言ったら、「じゃ博ね、パイプオルガン買ってあげる」って。 「えーっ」て今度は僕の方があきれかえっちゃってね、「おばあちゃん、パイプオルガンってどんなのだか知ってる?」ってきいたら、「ええ、みんながようパイプオルガンっていうから、一番いいオルガンに違いない。 だからパイプオルガン買ってあげる」って。 この社務所に移ったのは僕が二十三の時ですからね、六十年前のことですよね。

 ああ、それとね、東京に出てすぐの頃、マンドリンを弾きたいと思ってね、御茶ノ水の駅からちょっとさがった左側のところに、もう八十年ぐらい前からある楽器屋があって、そこでね、――そこへ行った目的はね、楽器屋でなくて、西田哲学の『無の自覚的限定』というのをどこ捜しても本屋になくてね、神田の古本屋をずっと捜してもなくて、明治大学の前の露天の古本屋でみつけた。 あーよかったと思ってね、ついでに「マンドリンも、できたら弾きたいんだけど」と言った。 それでマンドリン屋に寄って、イタリー製の中古品だけども、七百五十円だったと思う。 「えーっ高いなあ。 こんなの買えない」と思ったのに、おばあちゃんはさっさと「はい」って言って七百五十円払って買ってくれたんだよね。

 その時は、お金は全部で二千円しかなかったそうだ。 それなのに、マンドリンに七百五十円も払って、あとどうするつもりなんだろうと母に言うたらね、「うん、神様が要るものはちゃんと整えてくださるから、お金の事なんか気にしてない」って。 皆もそうなったらいいねえ。皆はそんなに神様を信じてるかなあ? 信じたら神様は信じたように、――本当に信じたら、信じたようにしてくださるんだよ。 すっかり信じないで、半信半疑だと、神様は決してしてくださらない。

 ほんとに信じたら、まっすぐの五十メートルの崖の山、男の人だって登れない、昼だって登れないような崖でも夜中に上がれる。  ポンと海に下向いて飛び込んだのが、上向きになって、寝たような形になってドンと元にひっくり返って落ちたのと同じですよね。

 僕自身も、ヨガをして、クンダリニーが目覚めて、わーっと神様の力が上から入って引き上げられると、実際に坐ったまんまで宙に浮き上がった。 二回程そんな経験した。 その時は体中が四十度か五十度かしらないけどお不動様みたいにまっかかに燃えるんだよね。 その後で、金色に光る。 で、そういう状態になると、物理的な次元の重力なんてのは関係なくなる。 そういうふうになるんだよ。

 そういうふうに神様を信じきってる、神様がなんでもしてくださる、と思ってる、そういう人が本当の信仰者、本当の宗教者なんだよ。 そういう人には苦しみはないんだよ。

 ただね、僕はなるべくいろんな霊を身体におろさないようにした、それでこうやって長生きできてると思うけれど、母のように霊をおろすと、悪い霊というか、迷ってる霊、そういう霊は、母の体、あるいは母の霊体から、つぎつぎエネルギーをとっちゃうのです。 すると病気になりやすい、エネルギーをとられちゃうからね。 で、一博や泰子や他の祭官も、そういう意味では、みんなのお祈りをするとそのカルマの影響を、どうしても受けるようになる。 そういう汚いエネルギーの影響を受けるし、自分のエネルギー、霊的なエネルギーを取られてしまう。 特にお代様のように霊をおろすとね、良い霊が入ると今まで風邪ひいてたのもぴんと治っちゃうが、悪い霊が憑くと、今までぴんぴんしてたのがあとでものすごくくたびれちゃってご飯も食べられないようにもなる。 だから、そういう状態が長い事続くと、やはり早く命がなくなるね。 それが母が早く死んだ一番の原因だと思うのです。

 で、そういうふうに人のために一生懸命お祈りしたわけですね。 だから、親孝行、神様を信じて決してくよくよしないで神様のおっしゃるとおりにする、そしてひとのために一生懸命に働く。 この三つがね、お代様の、我々が学ばなければいけない、非常に大事な特長だと思います。 その一つでもいいから、みんなができたら、もっとみんな楽になれるし、思うように神様のお力を戴けるようになると思う。 戴けないというのは、小さな自分があるから入らないんだ。 ちっちゃな茶碗に、大洋の水全体は入らないね。 小さな自分が無くなってしまえば、いくらでも入るわけです。 それは、お代様が、神様に代人として、清光先生が神様の審神者として、選ばれた一番の大事な理由なのです。 皆さんも、さっき話した三つのうちの一つでも良いからできるようになってほしい。 一つでもいいのです、一つできると、つぎつぎできるようになる。 ところが、百の階梯があるとすると、一ぐらいの所で止まるから、神様のことが本当にはわからないのです。

 お代様が神様に代人として選ばれる素質、優れた能力というのは、いわゆる頭がいい、秀才の頭とは全然違うのです。 神様から戴いた智慧は、すぐに物をつくりだす創造力になる。 学者が考えた知恵というのは、実験で試してみないと、仮説の状態では決して本当かどうかわからない。 実験装置を作って試してみてその仮説の通りに物が動いたら、やっと「真理」ということになる。 人間の頭は、頭がいいからその通りに物ができるかっていうと、ちょうど今経済システムが現実と合わない時には、潰れてしまったように、人間の考えた知恵というのは、決して現実の物をいつまでも動かす事はできないのです。

 ところが、母のような霊能者、――霊能者ではない、霊の世界を超えた世界に行かれてるわけですからね。 さっき金色に光るという話をしたが、キリストが復活された時、アナハタのチャクラというか心臓のチャクラがぱーっと金色に光っている絵がありますね。 同じことが、――五、六十年前には井の頭の冬は寒くて、二月の末というと朝は零下三度位だった。 池の水がカチカチに凍っていましたよね。 そんな冬の早朝に、水を被るわけです。 僕も『今から断食をして水を被れ』って御神言があると、昼はステーキでも食べようかなあと思っていてもうダメなんだよね(笑)。 それで、体が宙に浮く経験をした頃だけれども、いくら氷の下の水を被っても、体から湯気が出る、すごく熱い。 そして、ぱーっと光が出てくる。 おばあちゃんも僕が行をするのをすぐ側で神様にお祈りしながらみていてくれている。 そしておばあちゃんの方も光る、お互いに光って、金色の光、キリストの光のようなのが通じ合って、どっちもが「あ、おばあちゃん見えたね」、お代様の方も「お前にも見えたね、同じものだったね」と、そういうふうになると、霊の世界なんかとっくに、超えてしまったところに入っている。 まだ皆さんにはわからないと思うけど。

 今もね、――いつも、このお写真のような顔と金色の光との、両方でね、もう亡くなって三十五年になるわけだけど、毎朝行をして後おばあちゃんのところへご挨拶に行くと、出てくださる。 だから亡くなったという感じはないねぇ。 死んでも生きても通してずっと変わらない繋がりがあるから。

 みんなの魂だって同じなんですよ。 肉体が死んだからといっても、魂は死ぬわけじゃないのだから。 魂はずーっと生きてるわけだから、安心をして死んだらいいのです(笑)。 いや本当なんだよ、怖がる事何もないのです。 そういう魂が持ってる能力が充分に出るようにすれば、魂が前生からのいろいろな修行で得た能力は、自然に出てくる。 「あいつはすごい、天才だ」と言われる人も、昔からやっていたことがそのまま出てきてるだけのことなのです。 魂の持つ能力を大事にすると伸びるのです。
 どうしておばあちゃんがお代様として選ばれたかという理由がよくわかったかな。 みんなもね、お代様の爪の垢を煎じて飲む程に一所懸命に信仰に徹すれば、必ず神様のことがよくわかるようになるし、心が自由になれるのです。 自分の思う事、自分だけのためでなくて、人の役にも立つ、自分の役にも立つ、そして大きく社会の役にも立つような正しい事をしようと思ったら、必ずできるのです。
そういう信念を、おばあちゃんは、全然迷いがなく、もっていらっしゃった。
お代様がどんな人だったか、偉いというんじゃなくて、神様に近い方だったというお話をしました。今日はこれで。

 司会 宮司様どうも有難うございました。
 最後に、閉会の辞を組長小森庸光様からお願い致します。

 小森 本日はお代様百年目の御誕生日おめでとうございます。 ここに会場にいらっしゃる皆様と、本当によい時間を過ごさせていただいたことを、大神様、妙光之神様に感謝申し上げます。 私達の目に見えない、もう亡くなられた方とか御縁のある方達も、ここにいらっしゃるのです。 その方達にも「おめでとうございます。 いらしてくださいまして有難うございます」と、皆さんと一緒にご挨拶したいと思います。
こういうことを私が言えるのは、昔、私がまだ高校か大学に入ったばかりの頃、林さんという神具屋さんの方が、神田囃子の太鼓とか鐘を用意してくださっていた時に、お代様に霊界の子供達が乗り移って、にこにこ笑いながら、御拝殿で、とんとことんとこ太鼓をたたいてらっしゃる。 そのお姿が今でも目に映ります。 それを拝見して、あっ、やはり霊界ってあるし、亡くなった御霊達も、こうやって大神様の側で、大祭が行われるのを喜んでいらっしゃるという、得難い体験をさせていただきました。
それは今でも、泰子先生とか権宮司様、宮司様はご覧になっていると思います。 お代様のように見せてはくださいませんけれども。 お代様はそれを身をもって私達に見せてくださいましたので、私どもは本当に貴重な体験をさせていただきました。
ですから、本日、ここで私の目に見える方と目に見えない皆さん、ご一緒に、お代様の御誕生日を声を揃えて、「御誕生日おめでとうございます」を申し上げて、今日のお祝い会をお開きにしたいと思います。
「お代様、百年の御誕生日おめでとうございます!」

 一同 おめでとうございます。(拍手)

 司会 小森様、どうも有難うございました。 最後に宮司様にお願い申し上げて大神様にご挨拶申し上げて終わりにしたいと存じます。

(一同 大神様にご挨拶 「宇宙創造の神 玉光大神 守り給え幸え給え(三唱)」)

 宮司様 おばあちゃんが初めに神様がおさがりになった時は、偉い神様には違いない、しかしどういう神様かっていうのはよくわからなかった。 それで、亡くなられる前位までは、太陽の神様だと思っていらした。
僕が、宇宙創造の神様というふうに自覚して一つになれたのは、つい二、三十年ぐらい前だね。 だから四十年ぐらい坐って、やっとわかるようになった。 それからは、「宇宙創造の神様」と申し上げるようになった。 それまでは決してそのようには申し上げていなかったけどね。
妙光之神様も決してただの霊能者ではないのです。 神様のところに近づいて神様と一つになれるような高い所に上がってらっしゃる。 だからお願いをすれば、何でも叶えてくださると思うんだよ。 よくお願いしてください。
 ただ、自分の方が開いてないとだめですよ。 一升徳利だと、なんぼお願いしても、一升しか入らない。 この部屋の広さになったら、この部屋の広さだけ入る。 地球の広さになったら地球の大きさをすっぽり包める力を戴くようになるのです。
 お代様におさがりになった神様が、どういう神様かわかってもらえたと思います。
では、皆さん、ご苦労様でした。
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素直に祈れのお諭し

ある日、入部の漁師の人が足をひきずってお詣りしました。 そして申しますには、「この神様は、どんなことでも聞いて下さるとの噂で頼みに参りました。 私は四、五日前から足を痛めて、魚を売り歩くことができませんので困っています。 どうか足と手とかえて下さい。 歩けさえすれば少々手の痛いくらいは平気です。」と申しますと、『よしよし、手とかえてとらすぞ。』

と仰せになり、足をお加持しておやりになりますと、よろこんで帰りました。 見ておりますと、来る時とはまるでちがい、ちんばも引かないで元気に帰って行きました。 それから二、三日してその人が、首から手をつるしてお詣り致しました。 そして申しますには、「あれから帰りまして間もなくこの手が痛み出し、何もすることができません。 「どうか治して下さい。」と申します。 すると大神様が、

『吾に頼むならばもっと素直に頼め。 人の身体の中で、どこが悪くてもよいというところはないであろう。 これからはもっと素直な心で神を祈れ、そうすれば何事も即坐に叶う。』と仰せになり、お加持をほどこしになりますと、痛みもとれて帰ってゆきました。

株のお伺い

またある時、或る人が大阪から詣られて、ある銘柄の株を買いたいがよいかどうかと尋ねられ、大神様に御神占項きますと、『株式市場は当分休みになる。』

との御神言でした。 ところがこれを伝えますと、その人が怒って、

「今一度、拝んでみて下さい。 今迄に株式市場が休みになったことは一度もありません。  何かまちがいでしよ、。」と申してききませんので、再度お伺い致しますと、『国家的事変がおこり大混乱がおこるが、その者には只休みとだけ申しておけ。』

との御神言で御座います。 やっぱり当分お休みですと申しますと、けしきばんで、

「よくあたるということでわざわざ大阪から来たのに、株式市場が休みだなぞと、何のことだかわからない。」と言って帰ってゆきました。 すると大神様が御降臨あらせられ、『代よ、この後は決して株の売買なぞ吾にたずねてはならぬ。 このような変化のはげしいものは、吾の申した時すぐに致さぬ場合には大変なまちがいがおこり、その者の一生をもあやまたすこともある。』

と仰せになり、伺うことを固くおいましめなさいました。 このことはその時から三十年の今日まで守り続けてまいりました。 時たってその人がお詣りされ、

「先生、あなたは私の顔を覚えていられますか。 過日は大変失礼なことを申して帰りました。 あれからまもなく二・二六事件がおこり、御神言通り株式市場は休みになりました。 私の思惑がはずれて大変な損を致し、今では家屋敷を売り払い、妻子とも別れ別れに暮らしております。 どうか神様にお詫びを致して下さいませ。 そしてもう一度御神占を項きたい。」と申されます。 そこでお気の毒には思いましたが、大神様の御神言をお伝えして帰って頂きました。 こうして御神言を奉じ、私情にひかされぬよう心してまいりました。

弘法の滝での奇蹟

域る日お滝にお行に行きますと、田圃の草取りをしているお婆さんがおりました。すると大神様が、

『あの者の家には長い患いでこまっている者がいる。行って助けてとらせよ。』

とおおせになりました。お婆さんに尋ねますと、

「あなたはどなた様で御座いますか。ここらで一度もお見受けしたこともない方が、どうして私の伜が長い患いを致しているのがおわかりでしょう。おおせの通り、伜が長い患いで今では足も腰も立たなくなりました。患ってから、はや十三年になります。嫁も伜にあいそをつかして帰ってしまいました。」

と老いの目に涙をため話してくれました。そこで大神様の御言葉を伝え一緒に家まで行きました。薄暗い部屋に大きな男の人が寝ていられます。お婆さんから私の事を聞かれ、やっと私の方へ目を向けられました。すると大神様が病人に、

『立て。』

とおおせになります、そばからお婆さんが

「この子は長いこと足が立ちませんのでそれは無理で御座います。」

と申します。大神様が大喝一声、

『立て!!』

と仰せられました。するとその男の人がすっくと立ち上がりました。

『代よ、この者を背負ってお滝に行き、悪因縁を祓い浄めてとらせよ。』

と仰せられましたので、背負ってみますとかるがると背負えました。後からひもをかけてもらい、尺杖をついて十八丁の山坂路を途中一度も休まずお滝まで参りました。 岩の上に腰をかけさせて待たせ、私は滝に入り、一心にこの人の悪因縁がとけ一日も早く病気が全快致しますようにと祈りました。滝から上り、その人にお加持をほどこし帰ろうとして尺杖を取りに行こうとしますと、その人が尺杖を取りに行きます。驚いた私が、あなたは歩けるではありませんかと申しますと、

「本当に私は歩いておりますね、どうしたので御座いましょう。」

と言い、その場へうずくまり声を上げて泣き出しました。奇蹟とはこんな事を言うのか、それにしてもあまりに勿体ないことだと、私も有難さに泣いてしまいました。それからお滝に向かい、二人で大神様に御礼を申し上げました。 病人も歩けるようになりましたので、帰りには杖をこしらえて与え、路すがら私が大神様にお助け頂きました時のことなぞ話しながら参り、里近くになりますと、田圃から大声に、

「平助ではないか。お前それはどうしたんど、歩いてるではないか!!いつようなったんど?!」

と、鍬をすてて走って参ります。その声に他の田圃からも畑の人も走り寄って参りました。そこで今朝からの出来事を話してやりますと、村の人も、

「そんな勿体ないこともあるのか。うらら(自分ら)は昔のお大師様のことは聞いたが、今の時代にこんなことがおこるものだろうか。 有難い奇蹟だ。 お前これからちっとは信心もし、前のように酒を呑んでおふくろをこまらすなよ。また罰があたって立てぬようになるぞ。」

と口にはこのように申しながら、皆が我が事のように喜んでくれました。 家迄連れてかえりますと、お婆さんは驚いて立ちすくんでしまいました。そこで、深い御因縁のあることや、外に種々のお障りがあることを教え、神様の有難いことを話して聞かせました。 お滝に来る時にはまた立ち寄って、神様のお話をしてあげることを約束して帰りました。 すると三日目に親子が御礼にお詣りされました。その姿を見ますと、湯にも入り着替えもしていられるので、まだ四十歳を出たばかりの大きな人で御座いました。こんな大きな人をあのお滝までどうして背負って行ったのか。 しかも途中一度も休まず、不思議と言うにはあまりに勿体ないことだと、あらためて大神様の御神徳や御慈悲に深く感謝申し上げました。

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愛を注げ

戦後、森園様の御主人がお亡くなりになります数年前、奥様がお詣りになりまして、「お代様、私はある教団のみ教えを頂きましたところ、私が悪い為に主人の病気がなおらぬ、主人の前に鳴咽、号叫して詫びればすぐにもなおると申されますが、私は今日迄主人に尽くして参りました。 殊に病気に倒られてからは一層心を砕いて看護して参りましたので、殊更詫びる事は無いと思いますが、どうしたらよろしう御座いますか、大神様の御指示が頂きとう御座います。」

と申されます。 私がこのお話を伺っております中に玉光大神様が御降臨あらせられ、

『清光、台所からコップ五つと水指しに水をいっぱい入れて参れ。 五つのコップのうち、一つだけ違うコップ持って参れ。』

仰せられました。 清光さんが持って参りお渡し申しますと、大神様がお盆の中のコップを森園様へお示し遊ばされ、

『森園、吾がこれからそちに示すことによって、そちが主人に詫びねばならぬか否かを悟るがよい。 この五つのコップはそちの子供にたとえ、水指しはそち自身と思え。 中の水はそちの愛情である(森園様には五人のお子様がおありになって、上のお子様は先妻のお子様で御座います。 一つだけ色や形の違うコップはこの義理のお子様の事をお示し遊ばされたので御座います)。 今吾が水指しの水をそれぞれのコップの中へ注ぎ込む故見ているがよい。』

と仰せられ、それぞれのコップに水をこぼれる程お入れになりました。 形の違うコップには水を半分位お入れになって、

『森園、そちは今日迄子供達へこのようにしてきたであろう。 このコップは、初めから色も形も違っていて、誰が見ても違うことはあきらかだ。 それをそちは人から同じように見て貫おうと思い、あれこれと心をつかって形だけを整えようとして来たが、肝心の愛情を注ぐことは、このコップだけにはこのように水(愛惰)は半分にもみたぬ注ぎようであったぞよ。 いかにそちが悧発でも、このコップの色や形を変える事はできぬ。 無理をすればコップは壊れて元も子もなくなってしまう。 そちにできることは、コップの中へ水を注ぐことじや。 せめて他のコップと同じように水を入れてやることは心掛ければできる。 この後はかかる事のないようにせよ。 そうすればそちが気にしている世間も本人も満足するであろう。 そして同じコップのように振る舞うであろう。 そうなれば主人も心から喜ぶであろう。』

と仰せられて御昇天遊ばされました。 森園様も、今日迄の御自分の至らなさが分かりましたと申されて、大神様へお詫びしていられました。帰って主人にもこのお論しを話してお詫びしますと言って帰って行かれました。

昭和40年4月の御神言

『或る国の大統領が病気で、今倒れると戦争が起こる。 それがために代人を一週間寝かしておる。』

との御事でした。 代人は二十四日より体が悪くて休んでいました。 御神言があったので三十日迄お祈り祈りを止めてお休みしました。 

昭和四十年十二月二十二日

朝の祈りの時、玉光大神様御降臨あらせられ、

『代よ、二十四日から三日の間、ベトナム戦争終結を祈れ。 又国内に何事も無いように祈り、信者一同が無事に越年できるよう析ってやれ。』

との御神言が御座いました。 信者の方々にも申し上げ、朝六時から八時まで御祈念致しました。 三日目の二十六日の日、

『後一週間、祈りを続けるように。』

との御神言により、お祈り致しました。 すると、米国の大統領の霊と、他に二人、インドとソ連の首相、北ベトナムの大統領、英国の首相、中国の主席と、それぞれ重要な人達のみたま(生霊)をお呼び出しになって、

『即日戦争を止めて和平を誓え。』

とお諭しになりました。 お祈りが済んだ後、宮沢和歌子様が、

「お代様、あなたのお背中や後の方に、シルクハットをかぶった人や頭にターバンをかぶった人達が幾人も見えました。 何かあったのですか。」

と言われました。 私が御神言を頂き、見た通りの人達を、官沢様も御覧になられました。 尊いお祈りでございました。 

昭和四十一年元旦

玉光大神様が御降臨あらせられ、

『代よ、皆に平和になる、安堵しておれと伝えよ。』

との有難い御神言が御座いました。 

代人詠める

今年こそ吾が生涯の花の春

二日朝、一人静かに御神前に額づいていましたら、み鏡に釈尊が御出現になりました。そして私がお祈りの間中、私を見ていて下さいました。 お祈りを終えても、私の肉眼に、はっきり見えておいでになりました。

一月十一日、午前十一時三十二分、インドのシャストリ首相急死。 

十一日午後七時、ラジオニュース発表。 

アメリカ政府が北ベトナムへ和平交渉の覚書を直接手渡した事の発表がありました。 同じ十一日の新間にもこの記事が発表されておりました。 

一月十三日羽日空港での御神言

午前十一時三十分、アメリカの人から招かれて、宮司が、マニラに研究のために行きました。 飛行中の博の無事を祈っているうち、王光大神様が、

『今、一心に世界平和を祈れ。』

との御言葉があって、飛行機が去った後も暫くお祈りしておりました。 すると、

『代よ、二月四日、或は八日には、ベトナム戦争が終結するであろう。』

との御神言が御座いました。 お見送りの皆さんにも、今、大神様から良いお言葉があったと申し上げて、皆様へロビーでコーヒーを差し上げ、モノレールに乗って帰途につきました。 一月十七日、玉光大神様が、

『代よ、そちは今日から一週間、ベトナム戦争終結のために析れ。 信者の者には、二十六日から四日間析らせて、徳を積ませてやれ。』

との御神言により、皆様に伝えて共々にお祈り致しました。

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繋がった地蔵の首

その頃、牛込矢来町にお住いの浜田蔵吉氏と申されるお方が、お嬢さんを背負ってお詣りなさいました。 

「実は、この子供は七歳にもなりますのに、重い小児麻痺で、今日まで休んだきりで御座います。今迄医者にも見せ、種々な手当てを致しましたが、何の証しも御座いません。困っておりますところへ、こちら様のことを伺い、今日は子供を連れて思い切って参りました。どうかお助け下さいませ。せめてこの子が坐れるようになったらどんなに喜ぶだろう。私達もどんなに楽かと思います。この子の為にならどんな事でも致します。」と言っておいでで御座います。 

「お気の毒に、今日迄どんなに御心配なさった事であろう。」

と思い心からお祈り致しました。すると、氏の祖先のお婆様のおみたまがお出になり、

「私がこの子に知らせております。私は吹上の観音様の御境内にお祀りしてあるお地蔵様へ、いつもお詣りしてお助け項いておりました。 ところがそのお地蔵様の首が取れて、お寺の床の土台石になって、埋もれておいでになります。勿体なくて勿体なくて仕方がないので、何とかしてもとのようにお祀りして差し上げたいのです。その為、お前の娘に知らせている。」

と言っておいでで御座いました。大神様に、どうしたらよいものかお尋ね致しました。 

『このばばの霊が申す通りじや。そち(浜田)はこれから寺に参り、吾が申す通りを伝えて参れ。「私はこの頃、毎夜のように夢を見ます。その夢の中で祖先のお婆さんが出て来て、お前は吹上の観音様へ行ってお地蔵様の首が取れていること、御身体は土台石になっておいでになること、このままでは今にお寺もつぶれてしまうと申します。 初めのうちは気にも致さずにおりましたが、毎夜の事で、これはただごとでないと思って、今日はお叱りを受けることを覚悟でお尋ねに上がりました。一度お調べしてみて下さい。」と申せ。』

との御神言が御座いました。氏は翌日お寺へお詣りになって、御神言の通りをお話しなさいますと、お寺様も驚かれ、

「そう聞けば、寺にも余り良い事が無い。」

と申されて、方々お探しになりました。氏も一生懸命探していられるうち、お墓所の片隔から大きなお地蔵様の首が出て参りましたそうで御座います。さて、胴体はどこにあるだろう、とお探しになるうち、納屋の土台石を御覧になると、正しくお地蔵の御身体なのに驚かれ、御住職も面目なげに、氏に、御自分の粗忽をお詫びされ、早速もとのようにお祀りしておきますと申されましたので、氏は一切の費用は自分にさせて頂きたいと申してお帰りになりました。教会へお詣りになってこのお話を伺い、私達も驚きました。玉光大神様に御礼申しておりますと、お婆様の霊が出てみえて、

「これで安心した。私もこれで成仏できる。」

と言って喜んで上がられました。それから三日後、浜田氏がニコニコ顔でお詣りなさいました。

「お代様、娘の首がすわりました。今朝、娘を抱いてやろう致しますと、ちゃんと首がすわっています。 いつもなら首が後に倒れて、重くて抱きにくいのですが、今朝は、すわっております。 嬉しさに涙が止まりませんでした。いつもは何の感情も現わさぬその娘が、今朝は、嬉しそうな表情を致しておりました。家内と二人で顔を見合わせ神様へお礼申しました。家内はいつも、

『お父さんが又違う神様を拝むようになった。どこへいって拝んでも、この子の病気がなおるものですか。いい加減にあきらめておしまいなさいね。私はとうにあきらめていましたよ。お詣りする暇に家の事をします。』

と言ってこちらへもお詣りせずにおりました。 流石に家内も、明日はお詣りに来ると申しております。私はこれらお寺に参り、お地蔵様へお礼申して参ります。」

と言ってお帰りなさいました。 お寺へ詣られた浜田氏が、お住職に、お嬢様の首がすわった事をお話しなさいました。お寺でも、お地蔵様の首がつけてあったそうで御座います。

「私が先き頃お詣りして、夢を見て参ったと申しましたが、実は、神様のお告げでお詣り致し、お願いした次第で御座います。」

と、氏はこれ迄の大神様のお話をなさいました。御住職も、自分こそ、その神様へ御礼を申し上げねば済まぬと申されて、日ならず御礼に詣られました。 その時、大神様が、そのお住職の不心得を懇々とお論しなさいました。 住職も深く恥じ入り、再びあのような不敬のないように致しますとお詫びしてお帰りなさいました。大神様のお言葉で、その後、観音様の御境内にお地蔵様をお祀りなさいました。そして、三ヶ寺の住職をもって大法会をおさせなさいました。その為、観音様の御堂の修理や、畳替えに至る迄、全部の費用を浜田氏がお持ちになるようにとの御神言で御座いました。大法会の時、御住職から御招き頂きましたが、大神様が、

『代よ、そち達は参ることもあるまい。花は他人に持たせてやれ。他から見ているのも良いものだ。手もいらぬし、落とす心配もいらぬ。』

との仰せに、私達は辞退致しました。その後、私達も浜田氏と御一諸にお地蔵様へお詣りしました。 お嬢様の御病気は、めきめきよくなられまして、伝い歩きをなさるようになりました。 それから間もなく、外へ走り出られるので、親御様の方が却ってお案じになる程でした。学校へは一年遅れて小学校へ上がられました。 女学校へ上がられる頃には、運動の選手になってで御座いました。こんなにお元気になられたお嬢様が、お地蔵様へお詣りなさいますので、村の評判になり、お地蔵様へもお詣りが多く、お寺も栄えて参られました。ある日、お住職が詣られて、

「大神様のお話を、鎌倉の建長寺の管長にお話して、このお観音様を書いて頂いて参りました。お納め下さいませ。 」

と申されます。私の為にお書き頂いたと申されますので、御辞退もできず、記念に頂いて、私の部屋の床に掛けて御座います。拝見するたびに、二十五、六年過ぎた今尚、あの時の浜田様のお喜びが目に見えるようで御座います。 しかし人は皆、喉もと過ぎれば熱さを忘れる、のたとえのように、今はお詣りにみえません。吾も人も神様へは身勝手な事ばかりと存じ、深くお詫び致している次第で御座います。 

玉光大神様、どうかお許し下さいませ。そしてお護り下さいませ。 合掌

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宗派を越えて

信者の皆様も私のこの体験談をお読み頂きましたら、つながる御縁、御因縁がよくおわかり頂けると存じます。 最初の御神言のように、元のH教団から三つに分かれ、現在はP教団、S社、S会となっております。 これらの教団のために、陰からではございますが、大きなあやまちのないようにお祈りして参りました。 大神様は常に、

『宗派を超えて析ってやれ。 他の宗教を悪く言わなければ自分の教えの良いところがわかってもらえぬようなことでは、その教えの価値はないと思え。 人は皆、教えを説く人や、その場所に縁のある者たちが集まって来て、因縁を解いたり、作ったりして死んで行くものだ。 去って行く者を止めてはならぬ。 咎めてはならぬ。 人は皆、自由を望んでいるのだ。 殊に宗教は、信じて行なう者にのみ、神の奇蹟も現われるものぞ。』

とのお論しを、私達も深く心に留め、ひたすら精進させて頂いています。 橋本氏も高野山に於て、宮司からヨガの行を修得され、王光大神様の御神言をお守りになって、月始めの一週間は必ず高野山に籠られ、世界平和のため、また信者の不幸を吾が身に代えてと、御自分の御年令や御身体のことも御心にお留めなさらず、深山の冬の真水で水行され、お祈りに明け暮れておいででございます。 私もこの事をしのび、今なお氏の御健康を祈り、

S社の御繁栄を祈って止みません。 王光大神、守り給え幸え給え。 合掌

老母と大神様のご慈悲

その後の私達は支那事変から大東亜戦争へと拡大して行く戦争のために、日本の勝利を願い、又一日も早く世界の平和がもたらされますようにと、それこそ祈りに祈りました。 冬は厳寒の海に入り、又木曾の深山の氷る滝に向かい、寒さに祝詞も声に出ぬ程でございました。それでも心を奮い立ててはお祈りを続けておりました。そんな時は、大神様がお定め遊ばされた日迄は、どんなにきつくても山をくだることはできませんでした。又、行の間はどんな遠い所から(満州や青森から)御神占を項きに詣られても、お許しが出ない以上、御神占は致しませんでした。

ある日、青森の方がみえられ、御神占をと申されます。この時も、御言葉によって、世界平和の析願に入っておりましたので、どうしても個人のことのお祈りはできませんでした。どんなにわけをお話し下さいましても、大神様のお許しが無い以上、私はどうすることもできません。 青森からはるばる来て、戦地にいられるわが子の安否を尋ねられます。それも只一言でよいと申されますのに、また、

「あなたは情けを知らぬお方だ。」

と言って、玄関の敷居にうつぶせて泣いておいでの姿を見ては、大神様にお願いせずにはおられませんでしたので、日頃の御厳しい御言葉も忘れて、大神様にお願い致そうと思いました矢先、

『大事の前の小事ぞ。 帰すように。』

との御神言に、やむなく帰って項いたことがございました。あの時の苦しかったこと、お年寄りのお悲しみ、おいとしかったさまが、今でもまなうらに残っております。後から大神様の御神言をお伺い致しますまでは、

「なぜだろう。神様なのにむごいお仕打ちだ。」

と、私までが大神様をお恨み申し上げたことでございました。知らぬ事とは言え、勿体ないことでございました。 その時の大神様の御言葉は、こうでございます。

『あの老婆の伜はすでに戦死致しておる。 今、それを教えれば、青森からはるばる東京へ出てまでわが子の安否を尋ねる程の者だ。戦死と聞けば、はたで慰める人もなく、おそらく国許へは帰らず途中の山で縊死するであろう。 いずれは伜の戦死を知り、悲しむことであろうが、たとえ一度でも吾の所へ詣った者を、因縁のままに死なすことは不憫でならぬ。生き永らえてわが子の菩提をとむらわせ、因縁を解いてやりたいため、むごいようでも伜の戦死を知らさず帰すのだ。 代もこれからは、人を見て法を説けよ。一時の感情に負けて、人の一生をあやまらせてはならぬ。』

との尊いしお諭しを頂きました。人間は因縁を解く為に再生しているのであると、常にお諭し頂きながら、おろかにも感情に負けて、雪だるまの如く因縁を重ねて行く私達人間。自分では良いことをしているつもりでも、神様の御目から御覧になれば、相手の人が因縁を超えるために一生にまたとないよい時を失わせているかも知れません。 何というおろかな事でございましょう。ことある毎に大神様の深い深い御心に接し、愚かな自分を恥じ入る次第でございます。大神様は常に我々人間の幸せのために、世界平和をもたらさんと思し召され、種々と御心をおくだき遊ばすその時、一個人のために、こんなにも御慈悲を垂れさせ給うのでございます。真に尊いきわみでございます。

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教祖のご本

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教祖自叙伝

odaisama

お代様-お救いの神業

kyososeigyo

奇蹟に満ちた

教祖若き日の聖業