玉光神社の歴史

 1909年(明治42年)に山口県に生まれた教祖・本山キヌエ(お代様だいさま、神名:豊玉照妙光之神とよたまてらすみょうこうのかみ)は、母と共に小豆島に移り、生活の苦労と病気とに苦しんでいました。そして、1932年(昭和7年)2月6日、教祖は苦しさのあまり小豆島・双子浦の岸壁から海に向かって身を投げました。娘の様子にただならぬものを感じた母が後を追いかけましたが、教祖の身体はまさに崖の向こうに消えたところでした。その直後、教祖の身体が再び宙に浮かび上がり、元の崖の上に戻るのを母は目の当たりにしました。

 この時、教祖に神様が御降臨になり、「吾は天津神玉光大神たまみつおおかみなり。今から5年の後には天が逆さまになるような戦争がおこる。それを救わんが為に下りたるものぞよ。母親の日常の信仰と汝の孝養に愛でて命をたすけ、吾の代人として仕えさす」と御神言を告げられました。

 その後、準教祖・余島よしまシズエ(清光先生、神名:浄光照清光之神じょうこうてらすせいこうのかみ)と出会った教祖は、1933年(昭和8年)小豆島の渕崎に玉光大神様の御社を建立し、36年(同11年)上京、37年(同12年)には御神言により東京の明治神宮・表参道に「玉光教会」を設立しました。戦時中は御神言のままに日本各地を巡り、世界平和のために祈願しました。終戦後の1949年(昭和24年)、玉光教会は東京都三鷹市井の頭に移転し、52年(同27年)5月に宗教法人「玉光神社」として認可を受け、54年(同29年)には、井の頭・玉光神社の現在の社殿が落成しました。そして、59年(同34年)には小豆島・土庄町北山に御本宮を建立しました。

 準教祖の息子として小豆島に生まれた本山博(初代宮司、神名:玉之光照大御子神たまのひかりてらすおおみこのかみ)は、幼少の頃から教祖・準教祖と共に修行を積み、後にはヨーガ行を修め、宗教体験を積んでいきます。初代宮司は大神様より十代の頃から「吾子あこ」と呼ばれ、教祖の後継者として指名されました。その後、教祖の養子となり(本山姓となり)、1955年(昭和30年)1月に初代宮司に就任しました。

 1995年(平成7年)11月15日、初代宮司に御神言が降り、『十五条の御神訓』を賜りました。2015年(同27年)2月、『十五条の御神訓』が根本教義として正式に位置づけられ、初代宮司の次男である本山一博が宮司に就任しました。その後、2017年(同29年)に『十五条の御神訓』を解釈するための「基本釈義」を現宮司が発表しました。

略年表

1932 – 玉光大神様が教祖・本山キヌエに御降臨し、御神言を賜る。準教祖・余島シズエと教祖が出会う。
1933 – 小豆島・渕崎に玉光大神様の御社を建立。
1936 – 教祖が姉の看護のため上京。準教祖も続いて上京し、師弟の縁を結ぶ。
1937 – 東京・明治神宮裏参道に玉光教会を設立。
1949 – 三鷹市井の頭に移転。境内から縄文土器が発見される。
1952 – 宗教法人「玉光神社」として認可を受ける。
1954 – 井の頭に玉光神社の社殿が完成。
1955 – 本山博が宮司(初代宮司)に就任。
1956 – 教祖と準教祖、初代宮司が戦時中の必勝祈願、国土安泰祈願等の「願ほどき」のために小豆島を巡拝。巡拝中に「小豆島に御本宮を建てよ」との御神言を賜る。
1958 – 井の頭の境内に地主大神様の社殿を建立。
1959 – 小豆島・土庄町北山に御本宮を建立。
1961 – 宗教心理学研究所を設立。
1962 – 初代宮司が文学博士(哲学・生理心理学)を取得。
1972 – 国際宗教・超心理学会(IARP)を設立。
1974 – 教祖、神上(逝去)。
1992 – カリフォルニア人間科学大学院大学(CIHS)を設立。
1993 – 本山一博が権宮司に就任。
2002 – 準教祖、神上。
2015 – 2月本山一博が宮司(二代目宮司)に就任。9月初代宮司、神上。